新門辰五郎 辰五郎が新門を名乗るようになったのは実はこの浅草に由来する


新門辰五郎の生い立ち
新門辰五郎は寛政9年(1797年)に下谷山崎町の煙管職人、中村金八の子として生まれました。幼名は金太郎。
文化元年(1804年)金太郎が12歳の時、金八の弟子の不始末で火事を出してしまい、気の小さい金八は「世間に申し訳ない」と燃えさかる炎の中に身を投げてしまいました。この日の出来事は金太郎に「火事は親の仇」と心の奥底に深く刻み込ませることとなりました。そしてまた、金太郎が火消しの世界に入るきっかけになったのである。
残された者は生活苦にあえぐことになる。母親は途方に暮れ湯島天神前の鳶職わ組の小頭であり、叔父の仙三郎に金太郎の身の振り方について相談した。叔父は金太郎の根性を見込み18歳になったとき、浅草十番組の組頭町田仁右衛門に頼み込み火消しにすることにした。頼まれた仁右衛門の方も三年前に金太郎と同じ歳の倅を亡くしたばかりで、快く引き受けた。そして、名前を倅の名前であった辰五郎に改めさせ、我が子同然のように目をかけたのである。

男を上げる辰五郎
文政4年(1821年)3月28日浅草花川戸で火事が起こる。辰五郎が火事場に到着し消し口を取って屋根の上にを組の纏をあげたところ、立花家お抱えの火消しが押しかけを組の纏を倒してしまいました。これを見た辰五郎は黙っていられず、立花家の纏持ちと纏もろとも転落させてしまう。あわやを組とお抱え火消しの喧嘩になろうとしたところへ割って入った組頭の仁右衛門。どうにかその場は収まったものの、納得がいかないのは立花家であった。「下手人を出せ!」と申し入れてきた。辰五郎はこれを聞きつけ単身立花家に乗り込むと玄関に堂々と大胡座をかいて「勝手にしやがれ!」と啖呵を切った。気勢に圧倒された立花将監はどうすることも出来ず、辰五郎はその日のうちに帰宅したのである。この出来事はまたたく間に町火消し仲間に知れるところとなった。武家を相手に一歩も退かぬ町方の維持は喝采を浴び辰五郎は名をあげることになった。仁右衛門も日頃からかわいがっていただけに辰五郎に惚れ込み一人娘のぬいと養子縁組させ町田家の跡目を相続させることにした。

「新門」の由来
辰五郎が新門を名乗るようになったのは実はこの浅草に由来する。上野大慈院の義寛僧正が辰五郎の男伊達に惚れ込み、浅草界隈の取締役を依頼した。辰五郎はその責務を立派に果たし、浅草に絶対の勢力を持つまでになった。そこで僧正は一橋慶喜にとりなして辰五郎をお近付きにさせた。慶喜も辰五郎を大いに気に入り舜仁准后様が浅草に隠居し、新しく仏門を開いた折辰五郎に「新しい門」の衛士を仰せ付けたことから新しい門、新門を名乗るようになった。新門辰五郎になってからはその名声は江戸の隅々まで知れ渡り、を組の火消し213人の他、彼の息がかかった子分は約3000人に及んだといわれている。

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